おすすめ

今日のにっこりひまわり

新堀、納屋堀、築屋敷、唐人町、インフラ整備と民間活用〔4003〕2014/04/01

新堀、納屋堀、築屋敷、唐人町、インフラ整備と民間活用

2014年4月1日(火)晴れ!

お待たせ致しました!
こないだも書きましたが、本日、2014年4月1日より、九州でも青汁「菜食健美」の宅配サービスが開始します。九州乳業様のブランド、「みどり菜食健美」として、九州乳業様の各販売店様よりお求め頂けます。大分県、福岡県が中心ですが、熊本県、佐賀県、長崎県でも、一部地域を除いて宅配できます。お問い合わせは九州乳業フリーダイヤル:0120-014-369、またはお問い合わせフォームにて。いやいや、素晴らしい展開です。よろしくお願いします!

と、珍しく仕事のことを書いてしまいました。まあ、タマのことですき、ご容赦ください。
さて。
昨日のにっこりに少し書きました、材木町に、今朝の4時頃行って参りました。新堀川(横堀)に架かる橋から西向いて撮影した写真がこれ。右手にはりまや橋小学校の塀が見えます。
この界隈から西、つまり向こうへと堀が掘られ、新堀と称するようになった訳です。昨日も書きましたが、そこにあったのは赤岡町、樽屋町、佐賀町。その三町の人々が、私費で掘ったという新堀。それに対し、二代藩主山内忠義さんは、褒賞として、その住民に林産物専売の特権を与えたのでありました。

同じように、こっから横堀を南へ下り、現在のかるぽーとの南の所から、西向いて堀が掘られました。新堀が掘られた4年後の寛永六年(1629年)。これも、二代藩主忠義さん指示で、地元の町の人々が私費で掘ったそうです。それに対して忠義公。海産物の専売特権を、この堀の両脇にできた問屋に与えたのであります。インフラを民間に整備させ、その替わりに特権を与える。新堀と同じ。

この手法。藩政期、そのインフラ整備には随分と使われた手法。民間の活力を利用し、インフラを整備したり維持管理したりしちゅうやり方は実に上手。

しゅっと思い浮かべるのは築屋敷でしょうか。上町の南、鏡川沿いの町、築屋敷(つきやしき)。その名の通り、土地を造成してできた町。宝永四年(1704年)と言いますき、宝永南海地震の3年前。町民が、自力で造成して屋敷地にし、住むようになったとされます。これは、藩としては多分に、鏡川増水時の堤防の役割も期待しちょったでしょう。完成後2年間は年貢免除、3年目からも半分免除、という優遇策をもって、遇しちょります。
治水堤防を、民間の力で構築させ、その維持をも民間に委ねる。藩にとってもインフラ整備や維持管理にお金がかからんし、人手もいらない。民間にとっては、税金が優遇される。お城下の人々は洪水を免れる。うまい仕組みだ。

で、高知街の南側の鏡川沿い、唐人町も、同じような力学が働いちゅうがやないろうか、という説を、こないだ書きました。
何度も書いてきたように、唐人町は、朝鮮の役で、元親が朝鮮から連行してきた慶尚道秋月城主、朴好仁さんら30人が、山内氏入国後に浦戸から移ってきて住んだことに始まる町。その際、朴好仁さんは大きな屋敷を拝領し、町役も免除。その他の皆さんも年貢を免除され、更に豆腐専売の優遇措置を受けちょります。
これは、一国の城主であった朴一族に敬意を表したものでもあるでしょうか。そして、それ以上に、重要な役割を担わせたのではないか、という仮説。つまり、鏡川北岸に集住させ、町をつくることによって、お城下、特に郭中を守る堤防の役目を果たしてもらう、という意図。また、堤防というのは維持管理にお金と手間がかかる訳で、その役割を、唐人町に住んだ人たちに担ってもらう。公共事業の代行ですな。その替わりとして、税金を免除したり豆腐専売権を付与したりした、と考える訳です。

どうやら、我々が考えちゅう以上に、戦国期から藩政期にかけての行政システムはしたたかにして合理的。為政者と住民の間に見事なギブアンドテイク関係が築かれ、小さな行政機関と民間活力のバランスがうまく取れておったのではないか。

そんなことを考えながら町を見ると、今までと違う風景が見えてきます。


←前日の日記2014年04月の日記翌日の日記→

HOME今日のにっこりひまわり

CMギャラリー

今日のにっこりひまわり
毎日健康社員日記

日記検索

フッターアクセスメニュー