遍路石の痕跡〔3757〕2013/07/29
2013年7月29日(月)薄曇り
中国地方では大雨になっちゅうようです。お見舞い申し上げます。高知は、降りそうで、降りません。少なくとも高知市内、空気は湿っちょりますが、雨は落ちてきません。薄曇りの月曜日。
今日は岡山、愛媛と出張で、朝の汽車に乗っちょります。南風の中で、このにっこりを書きゆうがですね。
写真は、高知駅の北東。比島の山の西北くらいでしょうか。比島の旧道。高知駅の東、現在の、天下味さんのある広い南北道路が整備されるまで、一宮方面への道路は、比島山の北東麓でした。今も道路は残りますが、旧道となりました。
その道路の途中にY字路があり、その角に、このようなオブジェ。遍路石。こっから右へ行くと安楽寺さんで、左が国分寺と刻まれちゅう遍路石。
さて。この石には、ちょっとした歴史が刻まれます。
四国八十八ヶ所の札所であることは、収入面から申しましても、そうでないお寺さんとは全然違う地位を獲得すること。札所であるかないかは大きな違い。こないだ、田辺島の遍路石のところでも書きましたので、繰り返しになりますが、もうちょっと掘り下げましょう。
で、そのお四国の、29番札所は国分寺さん。そして、明治維新まで、30番札所は一宮の善楽寺さんでした。それが、維新期の廃仏毀釈の騒ぎの中で、善楽寺さんが廃寺になってしもうたことから、ややこしいことになります。
市内、洞ヶ島の安楽寺さんが、明治8年に、いちはやく再興、善楽寺さんにございましたご本尊、阿弥陀如来像を遷してきて、30番札所になったのでありました。
この遍路石をよく見ると、明治二十年と刻まれちょります。そう。30番札所が、間違いなく安楽寺さんであった時代。国分寺の次は安楽寺さんやった、その証拠の遍路石。
ところがその後。昭和5年になって、善楽寺さんが再興。そして、どちらもが30番札所を名乗る騒動に発展したのでありました。その争いは、平成6年まで続きます。なんと60年間。で、最終的には、善楽寺さんが30番で、安楽寺さんは「本尊安置霊場」の奥の院、てな決着をみたのであります。
札所であるのとないのとで、収入はどれっぱあ違うのでありましょうか。基本的にお遍路さんは、札所を廻ります。当たり前ですが。途中にお寺さんがあっても、納経したりするのは、札所。で、一般の人々は、普通、お寺さんというと、自分ちの菩提寺以外に参拝することは、あまりない。もちろん、京都とか奈良の名刹など、札所でなくても多くの人が訪れるお寺さんは一杯ありまして、高知県内にも、もちろんございます。
が、やはり、札所になりますと、自動的にどんどんとお遍路さんがやってきますので、そりゃあもう、人数が違う、そして収入が違う、てなことになりそうなことは、我々素人にも容易に想像できるではありませんか。
いや、下世話な話で申し訳ございません。
お伝えしたかったのは、この道も、遍路路であった時代があった、ということ。善楽寺さんが30番になれば、31番は五台山の竹林寺さんですき、ここを通ることはありません。
しかし。ご本尊も安置され、奥の院でもあり、また、長い間30番でもあった安楽寺さんにお参りするお遍路さん、今でもいらっしゃると聞きます。係争中は、両方のお寺さんをお参りするがが主流であったとも聞きます。
この遍路石が建てられた時代は、迷うことなく、国分寺さんからこの道を通って安楽寺さんへと向かいよった時代。そんな痕跡の遍路石。