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国定忠次の時代〔3682〕2013/05/15

国定忠次の時代

2013年5月15日(水)晴れ!

物部川では、今日が鮎の解禁日。夜明け前には、もう、たくさんの太公望さんが行儀よく並んで釣りよりました。今年は、県下、どの川も良いみたいです。特に東部。安田川とか、エイにかありませんね〜。
物部川は、近年、スタートはなかなか良い感じながですが、大雨が降ったり雨が続いたりすると、突然ダメになります。これは、上流域のダムに大量に堆積した土砂が、雨によって巻き上げられて濁りが消えんことによる、と言われちょります。今年はどうなるでありましょうか。

さて。
ここは今朝の野市、上岡八幡宮さん。参道の真ん中に鎮座ましますこの四角い石には、弘化四年未八月十五日と刻まれます。弘化四年と言えば、幕末が近づく1847年。幕府の権威が弱まり、外国からの圧力の風を感じるようになってきた時代。
弘化は4年間しかなく、翌年は嘉永。短いので、弘化の銘の入った痕跡は、割合に少ない。高知で有名なのは、中央卸売市場のある弘化台。あの人口島の場所にあった島に、弘化年間、砲台だつくられたき弘化台。

その時代、日本でも、いろんなこと、様々な事件があっちょります。国定忠次が生きた時代。
劇盗と称された国定忠次は、文化7年(1810年)の生まれで、文化、文政、天保、弘化、と生き抜き、嘉永3年(1850年)に、ご存知のように大戸関で磔刑になっちょります。満で言うと40歳。

近年、忘れられた感のある国定忠次。清水の次郎長の存在感は、そんなに衰えんのに、国定忠次はどうしたことでしょう。次郎長親分は、体制側ともうまく折り合い、波風のない晩年を過ごした人物。国定忠次は違います。

この親分の真骨頂は、堅気衆には手を出さない、迷惑をかけない、そして身内の博徒の規律には滅法厳しい、という態度でしょうか。後年、芝居などで誇張された面ももちろんあるでしょうが、どうやら、ホントにそういった人物やったようです。色々と検証してみると。
有名なのは天保の大飢饉での振る舞い。
役人、領主、幕府がなかなか対策が打てず、農民庶民が苦しむ中、米や銭を配って貧民を救うた、という実話。また、磯沼の浚渫、という飢饉対策の公共工事を、私費を投じてやっちょります。とは言え、これは、それ用に開催した博打のあがりではありますが。

もちろん、ヤクザ同士の血みどろの抗争もあり、死人もたくさん出ちゅうので、お尋ね者であったことは間違いない。が、赤城山に籠っちょったので捕まらんかったのではなく、地域の住民の中に紛れ込んじょったので、捕まらんかった、とも言われます。地元では、国定忠次のお世話になって、安全に、そして暴動を起こす程の飢えもなく暮らすことができた恩人であったからで、皆、それとなく匿うた訳ですな。

しかし、面白くない役人、そして幕府に目をつけられ、徐々に有力子分も捕らえられ、包囲網が狭まっていきました。弘化年間は、そんな時代。
結局最終的には捕らえられ、公開処刑。これはもう、幕府の権威を見せつけるための見せしめな訳ですが、国定忠次、それを逆手に取って、江戸から大戸に移送される際の衣装から立ち振る舞いから、芝居のように演出していき、そしてクライマックスが磔形。
一人の罪人を移送するのに、数百名規模の警護がついたという、まあ、特別扱い。そして公開の磔刑には、見物人が数千人、というきすごい。

そして、お上の考えとは異なって、伝説となりました。
芝居などで大人気を博して来た国定忠次ですが、どうも、このところ忘れられがち。世相でしょうか。弘化の銘を見て、その時代を生きた国定忠次を思い出してしまいました。


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