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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

真覚寺日記改訂版第一集〔3533〕2012/12/17

真覚寺日記改訂版第一集

2012年12月17日(月)晴れ!

今朝もあたたかい朝。全然シビコオリません。おだやかな良いお天気。

さて、このにっこりひまわりでは、時折、「真覚寺日記」からの記事をご紹介しよります。宇佐、真覚寺の住職、井上静照さんが、安政南海地震発生直後から書き始め、明治元年まで書き続けた日記、全14巻のことを、真覚寺日記と通称します。どうやら土佐の歴史家、寺石正路さんが名付けたにかありません。
1巻から9巻までが「地震日記」で、その後の5巻が「晴雨日記」。

その日記は、土佐市立図書館とかで見ることができますが、原本は、たぶん今でも宇佐の真覚寺さんに所蔵されちゅうと思います。図書館で見ることのできる日記は、原本を手書きで読み易いように写したもの。とは言え、活字ではないのでなかなか読みづらい。
そこで、昨年、「真覚寺日記改訂版編集委員会」という組織を土佐市郷土史研究会の皆さんがつくって、出版されたががこれ。改訂版第一集。
安政元年(嘉永7年)11月4日、つまり地震の前日の様子から書き始め、当日の惨状、その後の宇佐の生活の様子などを克明に記した超一級の資料で、この第一集は、安政3年の大晦日までとなっております。

このにっこりでは、昨年の大震災から、この日記をご紹介してきました。勝手に現代土佐弁に読み下してはおりますが。にっこりひまわりの「記事検索」で、「真覚寺日記」とか「静照」とかで検索すると、過去、読み下してきたものがどっしこ見れますきに、暇でたまらん時にでもご覧になってみてください。

さて。
安政地震発生の際の日記は、実は、今迄読み下したことがありませんでした。そこで、少し長くなりますが、読み下してみます。

嘉永7年(1854年)11月4日
朝、8時頃に地震があった。海の潮が不安定に満ちたり引いたり。この浪を、昔から、俗に「鈴浪(すずなみ)」と呼ぶそうである。潮が狂うて、鈴浪がくるがは津波の先駆けやき、油断したらいかんと、言い伝えられちゅう。浦の人々は、この浪に納得ができんけんど、その夜は異常なく過ぎていった。

嘉永7年11月5日 晴れ お日様が紅のように真っ赤であった
夕方までは何事もなかったので、皆、全然覚悟しちゃあせんかったところへ、晩の5時半頃、急に薄暗うなって近代未曾有の大地震。

山川が鳴り響き、土煙が空中に満ち、飛ぶ鳥も度を失うちゅう。人家は縦横無尽に崩壊、瓦は四方に飛び散り、大地が破裂して逃げるがも困難になった。男女、皆、ただただ周章狼狽し、子供の泣き叫ぶ声がすさまじい。
間もなく、沖から、山のような津波が押し寄せてきて、宇佐、福島は一面に海となった。その夜、月の入りまでに、津波が8〜9回押し寄せた。一番浪よりも、二番、三番の引き浪に、浦のすべてが流された。
総じて、大津波の際には、寄せて来るときはゆっくりで、引いていくときが急である。

福島と中須賀の間は、一軒の家も残らんかった。渭ノ浜は、山際まで津波がやってきた。宇佐は、流されんづつ残った家は僅か60軒くらい。そのうち、修繕できそうな家は二十余軒で、残りは残ったと言うたち修繕もできん崩壊状態。
津波の際、色んな道具とかをほったらかしてとにかく山へ逃げた者は全員助かり、金銀財産を気に掛けた者はことごとく溺死した。
今回、福島で50人余り、宇佐でも10数名が亡くなった。

大地震に際し、山を目当てにして逃げた者は全員助かった。船に乗って難を逃れようとした者は、多く、溺死した。波は、沖からだっけ押し寄せてくるものではない。海に近い場所は、下から潮を吹き出す場合もある。これを心得ちょかんといかん。

福島の浜のお宮さん、松岡の龍宮堂、西浜の山王権現さんの社、東町の小宮など、全部流された。お寺では、福智院のところに舟が流れてきた。正念寺さんは、本堂だっけは残ったけんど、仏具類はおおかた流され、庫裏は50mほど北に流されて柱が折れ、倒壊。極楽寺は、隣の家が二軒、境内に流れてきて庫裏にぶつかり、破損。本堂は残ったけんど釈迦堂は流れて跡形もないなった。その釈迦堂のお釈迦様の像は、宝永南海地震津波の際にこの浦に流れ着き、極楽寺に別堂を建てて安置しちょった像で、今回、また、どこへ赴かれたものやら。

さて、当、真覚寺は、津波がやって来たがを見て、手早く道具類を長持ちに納め、本堂の南東に置いて守りゆううちに波が門内へ入ってきた。本堂の前から庫裏まで波が廻ってきたけんど、地形が小高うなっちゅうので、建物の基礎部分を濡らすこともなく引いていった。ほんで、寺内の大切なもの、本尊、過去帳などなど、諸道具類は、まったく流失せんかった。

橋田では、家が全部流され、4〜5軒だけ残った。津波は奥深くまで入り込んで新居坂の麓にまで至っちゅう。東町は、北の、ヒキチの山際まで、新在家は、曲田の家まで。中町は、北のはずれ、田島片山などという郷士の家にまで波がきた。西浜は、談議所の下まで。
引き波の音は、千の雷のようにすさまじく、波に引かれて5軒、10軒と連なって海に流れていった。この際、金銀、食料、銭などを始め、家々秘蔵の諸品々、海へと流れていき、男女、子供の泣き叫ぶ声は夜になってもやまんかった。
今日まで蓄えて来た色んな道具、財産が海に流れていくがを見る人々の心中を推し量り、哀れでならない。

夜になっても、燈火の用意もなかったので、しばらくは月明かりを頼りに、皆、山中にうずくまり、波の音を聞きながら地震を凌いだ。今から98年前、宝暦7年7月26日、大風雨、大波に襲われた際、橋田全域が冠水し、当寺の門前の田の中へ小船が乗り着けられ、当寺の榎に船を繋いだというけんど、今回の波はそれより高く、本堂の前まで押し寄せちゅう。

奥宮正明が書いた「谷稜記」に、宝永4年10月4日の宝永大地震、津波の際、宇佐が「亡所」、潮は橋田の奥、宇佐坂の麓、萩谷口まで押し寄せ、山上の家が一軒だけ残ったと書かれちゅう。また、在家の北側の田へ、波が回り込んで押し寄せたき、避難ルートを失うた溺死者が400人余り、とある。この浦には、その大震災の記録が残っちゃあせんので、詳しいことはわからん。

さて、当寺の南東の畑の中に、夜を徹して、提灯を照らし、幕を張った。山に居る者たちは、また、津波が来るかも知れんと恐れて、この提灯の火が消えんがを目当てにしながら夜明けを待った。また、食事の用意がない人々が、当寺の幕の中へやって来て、薪を集めて火を焚き、寒さを凌ぎながら粥をすすったりしよった。

橋田で、津波が入って来んかったがは、当寺と、前後ろの二軒、それに薬師堂だけやった。

夕方5時から夜明け迄の地震の回数は、14〜15回。この地震津波で、土佐国の被害はすさまじく、津波が来んかった場所でも地震で家々が倒壊、無事であった土地はひとつもない。高知の城下でも、郭中、町家、おおかたが倒壊した。その際、下町から出火、地震中で消火活動もできず、延焼類焼して、町方会所から東、新町、農人町界隈まで焼失した。アッと言う間のできごとで、逃げ場を失うた犠牲者数百名という。また、津波で、新町界隈までが一面の海となったそうぢゃ。
郭中も町家の人々も、皆、広い場所や薮の中に逃げ込んで難を逃れようとした。総じて、宇佐界隈よりも、お城下の方が激しい地震やったにかあらん。

弘岡、森山界隈の人々は、皆、山へ逃げ登った。仁ノ村には津波が押し寄せ、その津波は仁淀川を遡り、西畑まで被害があった。この晩は、全員、茫然自失で一夜を過ごした。この夜は冷え込み、霜が下りて、雪のようであった。

当浦で、津波に残った家々を見回ってみたところ、橋田では、瓦葺きの家に打ち込んだ津波は2階まで。西浜でも同じ。東町では、天井まで。福智院は床上2m近く。新在家、曲田では、床上1m弱、ということである。

以上が、安政南海地震前日と当日の日記の読み下し。写真の、真覚寺日記 改訂版第一集から、読み下しました。この上ない、貴重な記録であることがわかります。
この改訂版、今後、第二集、第三集と続くことを期待したいところ。ところが、この第一集のあとがきには、次のように記されちょりました。

今回の出版を「改訂版第一集」としたが、今後の取り組みは、若い後進の方々の奮起に期待したい。

奮起せんといけません。


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