江戸の中級武士の屋敷の裏手〔3137〕2011/11/17
2011年11月17日(木)快晴!
今日は東京。昨日、大阪から高知へイにまして、今日、また飛行機に乗って東京。業界の寄り合いでございます。
こないだうちから書きゆうように、江戸の町は、起伏の激しい変化に富んだ台地と谷と水辺に建設されました。入り組んだ台地の地形を活かし、高台には武家屋敷を、谷間には町人を住まわせたのでありました。
江 戸城の東や南の平地には、広大な大名屋敷を並べちょりますが、その区画は、今でもgoogleの航空写真とかで見てもハッキリと確認できます。さて、お城 の西側の、少し入り組んだ麹町台地には、旗本などの中級武士の屋敷が並びます。その区割りは古代条坊制の60間を基準としたものになっちょりまして、今で も番町界隈を歩くとその区割りがわかったりします。区画整理で姿が変わってしもうた下町よりも、この界隈の方が、江戸の町の面影を伝えてくれるのでありま す。
内堀と外堀の間の台地上に、旗本などの中級武士、そして外堀を越えた市ヶ谷などの台地方面には下級武士、というヒエラルキーがはっきりし ちょったそうです。かなりキチンとした都市計画。しかも、起伏に富んだ地形を実に上手に取り込んじゅうががわかります。確かにこの番町界隈、うねうねと、 ちょっとした起伏が入り組んではおりますが、麻布とかに比べると平らな土地も多く、中級武士の居住地としては開発しやすかったらしいことが、歩いてみると よくわかりますね。
江戸時代の街は、道路を挟んだ両側が一つの区画。屋敷の裏は、裏手の区画の屋敷の裏と隣接しちょります。台地の坂に旗本屋敷群 を整備した場合、屋敷と屋敷の背中の部分を崖にして、屋敷地をつくりました。ここは九段小学校の裏手。ここにその痕跡が見えます。この崖のような部分は、 中級武士の屋敷が背中合わせになっちゅう部分の崖やったのでありました。手前の路地も、崖の上の路地も、約30間で通りに出ます。つまり、その奥行きが旗 本屋敷の奥行きであったことも、よくわかります。
旗本屋敷は、道路側に長屋門、つまり家臣団が住む長屋が道路に面し、長屋と長屋の間が門になっ ちゅうスタイル。その中には広い庭、築山、池がつくられるがが標準でした。大名屋敷も当然大きな庭がつくられたので、江戸は、外国の都市に例がないくらい の、緑溢れる大都市やった訳です。で、今でも都心部に非常に緑が多いのは、そんな独特の都市計画の賜物な訳ですね。これは誇りにせんといけません。
ち なみに江戸の名所は、「山の辺」と「水の辺」にある、という法則があるそうですね。名所は、寺社の周辺にある場合がほとんどで、寺社は、台地の端っこの エッジの部分か水辺につくられちょりますので、そうなった訳です。そんな美しい景観が、節操のない都市計画で無いなっていくのは悲しいこと。江戸の街づく りを、今一度お手本にしてはどうでしょうかね。そんな機運も生まれてきちゅうようです。