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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

舞高橋と戦国土佐決勝戦〔2593〕2010/05/22

舞高橋と戦国土佐決勝戦

2010年5月22日(土)晴れのち曇り

今日は久々に鏡川界隈たつくりコース。鴨田小学校正門前から南へ下ると、ご覧の通り、「舞高橋」というお洒落な名前の橋が神田川に架かっちゅうがをご存知でしょうか。この素敵な名前には、戦国土佐覇権の決勝戦にまつわる伝説があるのでございます。

土佐の中原では、戦国時代後期、2人の英雄がその覇権を巡って対峙しちょりました。一人は土佐の山中から勢力を延ばし、朝倉山に本拠を置いて土佐中原最大の勢力になった本山梅慶さんの息子、本山茂辰(しげとき)さん。そしてもう一人は、岡豊から徐々に勢力圏を広げ、本山氏の対抗勢力に成長した長宗我部国親さんの息子、長宗我部元親さん。

最初は本山氏の方が覇者になる勢いやった訳ですが、長宗我部氏がどんどんと追いつき、本山氏を脅かし始めたのでありました。

永禄三年(1560年)、あの、元親初陣と言われる長浜合戦で浦戸湾西岸にまで勢力を拡張した長宗我部氏は、その2年後、本山氏の本拠、朝倉城を攻めるところまでやってきました。永禄5年9月16日、その決勝戦は、神田城(現能茶山)に本部を置いた長宗我部元親軍の攻撃で始まり、3日間の激戦を繰り広げました。俗に言う「朝倉合戦」。特に2日目は本山茂辰嫡子、本山親茂くんの大活躍で長宗我部軍はあわやというところまで追いつめられたそうです。神田城は臨時城監吉田周孝(田中みんさんがエイ味出しちょった吉田東洋さんの先祖ですな)に任せ、元親さんは神田南城へ。それが、あの向こうの電柱の向こうの山。神田城はこっから北へしゅっとで、ここには当時、鏡川の本流が流れちょったそうです。そして戦い3日目の朝。本山軍への恐怖が植え付けられた長宗我部軍、この鏡川から白鷺の群れが一斉に飛び立ったのを敵の攻撃と勘違いして軍勢が崩れかけた、ということで、それにちなんで、ここに舞高という地名が残り、舞高橋になった訳です。なるほど。

さすがに長宗我部元親軍、そこからは崩れずに持ち直し、朝倉合戦は終わりました。その後、本山茂辰軍は朝倉城に火を放って本山へ退却、長宗我部氏が土佐中原の覇者となったそであります。

今日は岡豊の歴史民族資料館で長宗我部フェスが開催され、全国から長宗我部ファンが訪れて盛り上がっちょったようです。高知には、長宗我部氏にまつわるたくさんの伝説がコロがっちゅうがです。


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